アフリカ - 最初の海外旅行
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私が、最初にアフリカ旅行を思い付いた時代は、今ほどアフリカ起源説が有力ではなかった。ジャワ原人や北京原人の化石の発見から、アジア起源説が優勢だったように思う。少なくとも、学校では当時、アフリカ起源説は習っていない。20世紀の後半あたりから、南アフリカのヨハネスバーグ近郊において、150万年から300万年前の猿人の化石が次々と発見され、アジア起源説は次第と勢力を失う。そして、今では、アフリカ起源説が、世界の定説になっている。 |
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| では、なぜ中国やジャワでなく、アフリカ旅行にしたのか。それは、私にも分からない。多分、身近な場所より、はるかに遠い場所への漠然とした憧れ、また、アフリカの持つ母なる大地、原色の自然、野生の動物、真っ青な空を自分の目で見てみたいと思ったからであろう。 |
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| 私は、南アフリカの喜望峰から東回りで海岸線を北上、当時独立直後のモザンビーク、タンザニア、ケニア、エチオピア、スーダン、そして終着はエジプトというコースを取った。スタートは、10月の初めだったからか、スコールのような大雨に見舞われることはあまりなかった。特に海岸線は、日中は涼しい位の心地よさ。夜は、少し寒い。ところが、タンザニア辺りから昼間の暑さは、耐え難くなる。赤道に近づいているから当然だが。肌が痛くなる。仕方なく、現地の衣服を買う。 |
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| アフリカ旅行を始める前に、自分なりに守るべきルールを決めていた。決して幹線道路から大きく外れない。現地の生水は、極力飲まない。現地の人間と言葉を交わす際は、必ず笑顔で行う。無駄なお金は、使わない。ところが、2週間近く経った頃、自転車が潰れた。タンザニアに入って最初の日。首都のダルエスサラームまで、200キロ以上ある。仕方なく、自転車をあきらめる。ヒッチハイクに切り替えるが、こんな時に限って車が来ない。何とか、ダルエスサラームまで行きたい。炎天下の中、1時間前後して、やっとトラックが来た。何と、それは、モザンビークのマプートのレストランで知り合ったインド系のアジートだった。あの時も、ナイロビまで乗せて行ってやると言っていた。アジートは、1週間に1度、南アフリカのヨハネスブルグとケニアのナイロビを一往復する。彼は、南ア生まれのインド人だった。東洋人を不思議がって、私に声を掛けたと思ったが、奥さんが香港出身で、東洋人には親しみを感じると言う。この近辺では、よくインド人が商売の要所を握っている。 |
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アフリカの"輝く山" - キリマンジェロ |
ダルエスサラームで降りて、自転車を買うつもりだったが、親しくなった都合上、ナイロビまで同乗を決めた。私の英語は片言だが、アフリカに来てこんなに英語を使うとは思わなかった。彼は、本当に陽気で親しみやすい42歳のおっさんだった。私が英語に詰まると、中国語を使って私の機嫌を取る。また、知っている少しの日本語を交えながら。つい、別れを言いそびれて、ナイロビまで付き合った。車から見たキリマンジェロが雄大だった。ナイロビでは、空港の隣にあるナイロビ国立公園でサファリを楽しむ。アジートも付き合ってくれた。ヌーの大群が移動する様は、筆舌にしがたい。何百頭、いや何千頭が一斉に動く。それでアフリカの大地が轟くように、何ともスケールがでかい。この公園は、ナイロビ市内にあって、遠くには、ビル群が見える。日本人観光客も多く目にした。 |
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現在のナイロビ国立公園 |
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| 私は、その後、ナイロビで新しい自転車を買い、山岳地帯のエチオピア、砂漠のスーダンを走破して、エジプトに入る。エチオピアでは、高山病で体力を消耗し、死ぬかと思った。親切な現地の一家が3日ほど泊めてくれた。アフリカ旅行で、何度か危険な目に会ったが、現地の村人の大半は、親切でとても世話好きだ。食事も出してくれた。体力の消耗と空腹感で、何を頂いてもおいしく食べることができた。ただ、汗と泥まみれの衣服や体を洗う場所が、ナイル川に出るまで、ほとんどなく、これには困った。水は、命以上に貴重だということを改めて悟った。エジプトのカイロに着いた時は、11月の終わり、南アフリカの喜望峰を出て、ほぼ2ヶ月が経っていた。 |