古代ギリシャ - ヨーロッパ文明の源流
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| 古代ギリシャの文明や哲学、政治形態は、ヨーロッパ文明の原点である。近代文明において、世界で最も発達した地域の源となった点で、ギリシャ文明の発祥に興味を持たずには、おれない。古代文明の一つであるエジプト文明の北上に、同じくメソポタミア文明の西方に存在したギリシャは、当時から双方の進んだ文明の影響を受けながら、徐々に古代ギリシャ文明が開花したと考えられる。 |
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クノッソス宮殿跡 |
紀元前2,500年の頃、エーゲ海を中心に、エーゲ文明が芽生える。特に、エーゲ海の南部に位置するクレタ島にクレタ文明が存在した。紀元前1,700年頃に、クノッソスに宮殿が建てられた。その宮殿の主であるミノス王は、エーゲ海の大小の島々を支配し、海洋国家的な勢力を誇っていた。クレタ文明は、ミノス王に因んで、ミノア文明とも呼ぶ。1,900年に、イギリス人考古学者アーサー・エヴァンズが、クノッソス宮殿の発掘に成功した。彼の功績は計り知れない。それまで神話や伝説上の人物としてしか語られなかったミノス王の実像を明らかにしたことは、考古学の世界で歴史的な快挙である。ギリシャ神話に出てくる、息子ミノタウルスを幽閉した迷宮(Labyrinth)も、単なる神話や伝説でなく、クノッソス宮殿内に実在したことが確認されている。当時は、千を超える豪華な部屋があった大宮殿だったらしい。今は、全体像は掴めないが、敷地の規模や現存箇所から、当時の最高水準の建造物であったことは容易に想像できる。 |
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| クノッソス宮殿に、城塞がなかったことから、平穏な時代だったことがうかがえる。出土品の中には、青銅器、彩色土器、絵文字や線文字(A種)が描かれた粘土板が含まれる。特に、目を引くのは、精巧な |

有名なクノッソスの雄牛のフレスコ画 |
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フレスコ画が見つかったこと。その当時に、これ程までに高度な技術を持った壁画師がいたとは信じがたい。出土品の多くは、現在、クレタ島イラクリオン市内にある考古学博物館に保存展示されている。クノッソス宮殿は、下水道が完備していたことも遺跡現場から分かる。 |
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| ところが、クレタ文明は、紀元前1,400年頃、突如として、姿を消す。何故か? 一説には、後にミケーネ文明を起こす他民族の侵略によるもの。もう一方は、クレタ島北上にあったサントリニ島(別名:テラ島)の火山が大噴火、津波、地震による破壊によるもの。どちらも、真実の程は定かでないが、後者は、プラトンのアトランティス伝説にまで結びつける。つまり、アトランティス大陸は、サントリニ島だったという訳。ギリシアの考古学者アンジェロス・ガラノプロス教授は、1,960年代に、このことを主張し、世界中に話題を巻いた。尤も、アトランティス大陸は何処だったかは、諸説紛々で、あちこちあるが、これだとする決め手は何処にもない。今度、ギリシャに旅行した時に、この点をギリシャの地元の人間に聞いてみたい。きっと多くの人間は、肯定するであろう。 |
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| 紀元前2,000年頃、インド・ヨーロッパ語族のイオニア族が北部から進入し、クレタ文明の影響を受けつつ、ミケーネ文明を開花させた。クレタ文明と違い、宮殿の周りに強固な城塞を巡らし、極めて戦闘的な部族であった。武勲を好み、侵略を重ねた。ホメロスの叙事詩"イリアス"と"オデュッセイア"は、このミケーネ時代の英雄伝説である。トロイ戦争も、その一つ。トロイ王が、スパルタ王の妻ヘレナを略奪、その後、互いの王女を奪い合う10年間の争奪戦争の末、ギリシャ勢が、トロイ軍を負かすという物語。ホメロス詠いと呼ばれる盲目の吟遊詩人が、音楽と共に吟唱した伝承文学だ。琵琶法師が、琵琶を弾きながら、平家物語を吟唱したのと同じである。 |
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| ミケーネ文明は、クレタ文明の線文字(A種)を改良した線文字(B種)が用いた。ミケーネ文明のミケーネは、ペロポネソス半島東部の地名で、ミケーネ文明の中心地。1,872年にドイツ人考古学者ハインリッヒ・シュリーマンによって発掘されたミケーネ遺跡は、ユネスコの世界遺跡に登録されている。また、同時期に彼によって発見されたミケーネ王アガメムノンの黄金の仮面は、アテネの国立考古学博物館に保存展示されている。ミケーネ王アガメムノンは、トロイ戦争でギリシャ側の総大将だったことで有名。 |

ミケーネ遺跡のライオン門 |
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ガメムノンの黄金の仮面 |
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| 紀元前1,200年頃、ドーリア人が侵入して、ミケーネ文明は次第に消滅。同時に、クレタ文明、ミケーネ文明と続いた文字文明が失われた。紀元前800年頃まで、歴史を裏付ける資料がない為、この時期を暗黒時代と呼ぶ。その後、鉄器時代に移行する。それによって農業、商業、工業が発展し、また、海上交易が盛んになり、フェニキア人から表意文字を学んで、文字文明が復活した。貴族社会が形成され、王政から貴族政治に変わる。貴族と平民が市民権を持って、政治に参加する民主政治が行われる。大小多くのポリス(都市国家)ができる。互いに同盟を結んだり、対立したりして、分立存続した。 |
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| アケメネス朝ペルシア帝国と、地中海における海運貿易の利害関係で起きたペルシャ戦争では、ギリシャの各ポリスは、団結して戦い、ペルシャ戦争に勝利する。しかし、その後次第と、各ポリス間の覇権争いが激化し、アテネを軸とするデロス同盟と、スパルタを軸とするペロポネソス同盟が戦うペロポネソス戦争が起きる。27年間に及ぶ戦争は、結局、スパルタ軍側が勝利することになる。以後、各ポリスは、次第と衰退する。紀元前338年、隣国のマケドニア王ピリッポス2世がカイロネイアの戦いで、アテナイ・テーバイ連合軍を打ち破り、ギリシャを征服。古代ギリシャは、終わりを告げる。ピリッポス2世の息子アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)は、父の後を継ぎ、ペルシャ、エジプトを征服し、広大な大帝国を築き上げた。ギリシャ語を公用語とし、ギリシャとオリエント(東方)を融合した華美で優雅なヘレニズム文化を領土の全域に広め、各地で見事に開花させた。 |
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パルテノン神殿 |
古代ギリシャの象徴は、何と言っても、アテネのアクロポリス(城丘)のパルテノン神殿であろう。女神アテネの神殿。これは、ペルシャ戦争(紀元前492年から紀元前449年)の時に破壊され、紀元前420年に再建されたもの。当時のこれは、アテネが、都市国家として、政治、商業、建築の分野で頂点に達したことの証明であった。15世紀のオスマントルコの支配下では、弾薬庫として使用される憂き目に、また、ベネチア軍の攻撃を受けて、大破した。また、1,800年代前半、大英帝国の在オスマントルコ大使エルギン伯爵が、賄賂を使って、パルテノン神殿の正面を飾ってあった大理石のレリーフを始め、数多くの彫刻類をスコットランドの自宅に運び去るとんでもない不祥事があった。それも、10年がかりで、堂々と行われた。 |

エルジン・マーブルの1つ |
イギリス本国でも、さすがに問題となり、1,816年に大英博物館に寄贈することになる。現在の大英博物館では、一角にエルジン・マーブル(Elgin
Marbles)という特別展示コーナーがあり、そこで観覧できる。1,830年にギリシャが独立、それ以後、再三に渡って、イギリスに返還を求めているが、未だにイギリスは、これに応じていない。尤も、大英帝国は、植民地のあちこちから、所蔵価値の高い品々を半ば強奪して、大英博物館に保存展示している。帝国主義なら、当たり前かも知れないが、ほとほと呆れてしまう。恥を知れと言いたい。 |
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三位一体修道院 |
最後に、ギリシャ旅行で、忘れてならないのは、メテオラ山の修道院。ギリシャ北部カランバカ郊外にあるメテオラ山には、奇形な巨大岩石が多くある。10世紀頃、地中海沿岸地域でキリスト教の弾圧が盛んだったそうだ。そこで、キリスト教徒が神との交信を求めて、それらの巨大岩石の頂上に安息の場を造った。上り下りに綱梯子を使った。左の写真の三位一体修道院では、岩と岩の間をケーブルで繋いで、行き来する。24の修道院が建てられたが、現在も実際に使われているのは、6つ。その内2つが女子修道院。点在する巨大で異様な奇形岩石群は、中国桂林の奇形な山々を思い出させる。 |